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Crossing Borders: Past and Future of Japanese Studies in the Global Age

Nobuko Toyosawa, Author

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発表の概略

スーザン・バーンズ 教授 シカゴ大学 


<日本の癩病療養所における人権、生市民権、そして出産政策に関する問題>

日本初の国立ハンセン病療養所である長島愛生園の園長光田健輔は、1936年に「20年間にわたる精管切除術の評価」という論文を『愛生』に発表した。そこで光田は、彼自身が20年前公立癩療養所全生病院病院長であった時に、先駆的に行った入所者の断種手術に関して述べた。光田の言葉を借りると、初めにこの手術を受けたのは「40代から50代の中年男性で、術後彼らがもっと元気になったことからも、この断種手術が男女両方の癩病患者が幸せに暮らしていける唯一の手段である」画期的な試みであった。 
しかし、このバラ色のイメージはハンセン病患者の隔離政策を推進した日本の政策とは、かけ離れたものである。例えば、最近の研究結果では、男性患者は日常的且つ強制的に不必要に精管切除を行われ、また妊娠した女性は中絶が不可能となった時期でも中絶の強制をされるなどの実例が挙げられている。日本の癩病予防法を政治的問題として扱うことに重要な役割を果たした藤野豊は、ハンセン病患者への断種手術をナチス政権下の断種政策になぞらえている。本報告では、性や出産に関する癩病機関での政策を再検討し、断種政策をめぐる論争は、医者が主張し続けてきたように完全に患者の自発的意志によるものでなければ、また、強制的に行われたものだ、と断定することも不可能であると論じる。そうではなく、最近研究者の間で話題になっているフーコーの「生政治学(bio-politics)」という概念を更に複雑にしている生物学的市民権「生市民権(bio-citizenship)」という観点から、人体を管理するとはどういうことかを再考する。   


 セルゲイ・クズネツォフ 教授 イルクーツク大学


<ソ連に連行された日本人捕虜の強制収容とその遺産>

第二次世界大戦後にソ連に連行された日本人抑留者の歴史は日露関係において最も劇的なページの一つと言える。時が経つにつれてその過酷さは薄れたが、歴史の記憶は風化していない。日本人抑留者に関するソ連の公文書は、ミハエル・ゴルバチョフが着手したペレストロイカの初期に発見され、捕虜生活について様々な観点から分析を行う学術書や膨大な研究論文が書かれ、公文書の集大成も編まれてきた。また、日本においては、2千を超える元抑留者の回想録も日本で出版されている。しかし、抑留者に関する本格的な歴史研究が始まったのは、つい最近である。
歴史研究者間の活発な論争の的となった論点の中に、ソ連当局が抑留者のソ連領土への移送を決定したメカニズムがあった。ソ連に収容された日本人抑留者の総数に関しては、異なる資料があり、49万人から61万人と推定されている。またソ連国内で死亡し、埋葬された日本人抑留者の総数についても、4万5千人から6万人と想定されている。抑留者のソ連領内部の地理的分布は、大規模な労働力を必要とした産業、建設、農業のニーズに関連していた。ソ連経済の発展において日本人抑留者が果たした具体的な貢献については、報告書やその他の文書において特筆されていないために把握することが難しい。ソビエト当局によって捕虜収容所において行われた日本人抑留者に対する教育プログラムについては、多く議論されてきた。その効果は小さく最小限であったあったことが示されている。特に興味深いのは、日本人(抑留者)の本国送還とそれにまつわる状況に関しての回顧録である。 

シェルゾッド・ムミノフ 助教授  イースト・アングリア大学 


シベリア抑留:戦後日本のトランス・ナショナルヒストリー

大日本帝国の傀儡政権として建国された満州国の崩壊で大量に流出しソ連赤軍に追われた60万人をも超える元帝国陸軍の軍人を収容したとされるシベリア抑留は、日本以外ではあまり知られていない。強制労働収容所が必然的に自国の国境外で起る現象だとすると、なぜ他国で知られていないのか不思議である。しかし、トランス・ナショナルな出来事の中でもシベリア抑留は典型的であったと言えるだろう。なぜならば、大日本帝国の主要地で敗戦後すぐに中国内戦の戦闘地となる満州国から流れ出た捕虜たちは、ソ連の広大な地に点々とする収容所に続々と送られ、それを生き延びた者たちは、戦後しばらくして連合国に占領された日本に戻ることになる。

本報告では、戦後数年間に渡ったシベリア抑留をトランス・ナショナルな出来事として据えつつ戦後日本の再興を再検討する。つまり、抑留を1)アジアにおける日本の帝国主義化、2)スターリンによる戦中戦後のソ連強制収容所への強制移民、そして、3)国際的な歴史現象であった冷戦、という3つの歴史的文脈で考えることで、大日本帝国の滅亡、脱植民地化や再び国民国家を再建するまでの移行、市民権や国民性の再定義、そして敗戦第一期の不安定な中で戦後日本の将来像に挑んだ政治・イデオロギー問題を新たな観点から見直すことができる。


イヴォ・プルシェック マサリク大学 


1950年・60年代にみる日本社会党と東アジアの戦後賠償問題について

日本が東アジアの近隣諸国と歴史をめぐって和解に至ることができなかった理由に、戦後長い間政権を独占した日本自由民主党による政治があげられることが多い。この観点を推し進めると、悔恨の念にかられ謝罪することを良しとする政策を1980年から90年代に掲げた日本社会党が政権を握っていれば、日本はアジア諸国と歴史問題や歴史意識の温度差をもっと早く解決しえたかもしれないという希望的見解が生まれるが、果たしてどうだろうか。
本報告では、戦後初期、日本の外交上重要な問題であった東アジア諸国との賠償問題を分析する。サンフランシスコ平和条約第14条は、日本が第二次世界大戦中アジア各国で引き起こした多大なる被害を賠償する義務があることを明記し、最終的に日本はビルマ、フィリピン、インドネシア、南ベトナムと4つの賠償同意に達し、さらに1965年には韓国とも関係正常化を果たすための日韓基本条約に調印した。社会党は賠償交渉には直接関与していなかったが、本発表では、社会党が国会での賠償条約の批准過程では公的批判者としての役割を果たすなどの点に注目し、社会党が戦後賠償問題にいかに取り組んだかを検討する。   

ズザナ・ロズワウカ マサリク大学


<"Origianl Japanese":チェコの舞台で初めて活躍した日本人芸人

もうすぐチェコ共和国(その時点ではチェコスロバキア)と日本が国交を結んで100年になるが、実は、すでにその前からチェコと日本の文化的交流は始まっていた。19世紀を通して日本というイメージは曖昧なものであったが、外交や日本美術の影響を受け始める前にチェコでは日本との交流がまず舞台を通して始まったのである。
報告者の博士論文は、19世紀後半から第二次世界大戦の終わりまでの期間、チェコの演劇に日本の芝居や役者がいかに関わっていたかを研究するものである。日本が西洋と初めて接触したのは川上音二郎(1864-1911)とその妻貞奴(1871-1946)がパリ万国博覧会(1900)に現れた時だとされているが、そのだいぶ前から日本の芸人が西洋で娯楽を提供しており、チェコでもその存在はよく知られていた。例えば、軽業師・曲芸師・手品師・踊り子などの「見世物」を演じる者が西洋に広く渡航し、「神秘的な日本」を描きその実態を渇望する多くの西洋人のために活躍していた。こうした芸人の意義は最近まで認められることがなかったが、それは長い間文化という概念が知的洗練や進歩の高低で理解されてきたことに因るだろう。
本報告では、チェコ国内で上演された作品の一次資料を分析し、新聞などを介して彼らの興行が報道され受容されていた様子を紹介するとともに、すでに1867年の時点で初演が遂行されこれを演じた者たちが、おそらく初めてチェコ人が接触できた日本人でもあるという興味深い歴史にも触れる。    


モルゲイン・ゼッツァー ルール大学ボーフム 


高井蘭山:19世紀日本における歴史知識の伝達と読本

庶民がいかに歴史的知識を入手し歴史を学ぶのかという問いは、知識と権力の力関係、また、その時代の文化的価値観に深く関わる点からも、大変重要な社会的意義を持つものである。本報告は、近世日本における歴史の描写、叙述、表象を分析し、いかに歴史が庶民に伝達し習得されていったか考察する博士論文の、特に高井蘭山の『平家物語』に関する読本を例にとる。
蘭山は、様々な方法で歴史を詳細に説明するが、物語のあらすじを明瞭にすることは同時に読者が歴史的出来事を把握しやすくするためでもあり、例えば『平家物語図会』(1829-1849)では、豊富な挿絵や注釈を提供することでこの目的を達している。また、『敦盛外伝・青葉の笛』(1813)は、こうした挿絵や注解以外に、語りに他の説話や御伽草子、劇のプロットが組み込まれ、読者にわかりやすく叙述されている。序文に示されているように、学者の論争に加わるためではなく、蘭山が想定した読者が庶民であったことからも、本発表では、蘭山が作品を通してどのように庶民に歴史的知識を伝え、その目的を成し遂げ得たかを19世紀初期の社会・文化的背景に照らし合わせて検討する。    

安井眞奈美 教授 国際日本文化研究センター 


<日本における胎児観の変容>

子どもの死をどのように捉え、弔うかは、文化によってまた時代によっても異なっている。日本では、1950年頃までは生まれて間もない生児や乳幼児が亡くなると、家族は、亡くなった生児のなるべく早い生まれ変わりを願って、通常、最も簡単な方法で埋葬してきた。

近年、産科医療の現場で、流産や死産、新生児の死を経験した妊産婦とその家族に対するグリーフケアの必要性が増加している。これらの変化は、胎児観の変容と関わっていると考えられる。その背景に、少子化が進んできたこと、妊娠、出産の経験がより貴重になってきたこと、また1970年以降、妊婦健診の際に超音波診断が用いられ、胎児の姿が可視化されるようになったことなどが挙げられる。近年の3Dや4Dの超音波診断により、親達は、子宮の中にいる胎児を見るだけでなく、胎児の動きをつぶさに観察することができるようになり、胎児と親の関係にさらなる影響を与えている。

本発表では、医療の進展に応じて変容する胎児観の解明を試み、胎児や新生児の死に関連した新たな試みの理解に向けて、民俗学や文化人類学の研究が貢献できる点を示してみたい。


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